あらゆる物語を愛してここまで来たし、これからも進んでいく
世の中に溢れる物語たちが好きだ
物語が好きです。
ただ、物語と一口に言っても間口は広めで、小説・アニメ・映画・マンガ・演劇といった一般的に連想される物語に留まらず、他者の思考や行動の変遷、会社の遍歴なんかにも興味を持ちます。
ドキュメンタリー的な色合いを持った個人運営のブログも、物語のひとつとして興味を持って読み進めます。届けられる範囲には直接感想を伝えたりもします。
企業のコーポレートサイトや採用ページを読むのも好きです。気になった製品の販売元やサービス運営会社のホームページはしっかりチェックします。単純な興味で、転職活動などは全く関係ありません。
クラウドファンディングを始めとしたプロセスエコノミーに惹かれるのも、その過程に物語を感じているから。支援する・しないにかかわらず、クラウドファンディングのページはよく読みます。
学生時代の歴史の授業は苦手でしたが、歴史も物語として捉えられたら楽しいでしょうね……。
そんな感じで、インターネットの恩恵を受けつつ、世の中にあるさまざまな物語をインプットしています。ただ、これらを意識するようになったのは、比較的最近の話です。
物語の情熱に気づいたのはTRPGがきっかけ
私が物語を意識するようになったのは、TRPG(テーブルトークRPG)がきっかけでした。
2019年末に初めてTRPGで遊んでから2年半が経過しましたが、今でも熱量高く遊び続けられています。動画編集など、TRPGのおかげで使えるようになったスキルも随分と増えました。
最近になって「なぜTRPGにここまでのめり込んでいるのだろう?」と考える機会がありました。
特にGM(ゲームマスター:TRPGの進行役)をやるときは、準備に多くの時間と労力を割きます。1回遊ぶのにも数時間かかり、スマホゲーム等と比べて手軽に遊べるゲームではありません。また、あくまでこれらは趣味で、金銭的なリターンもほとんど発生しません。
にもかかわらず、なぜここまで遊び続けられているのだろう?
私は、TRPGからどんなリターンを得ているのだろう?
その答えが「物語」にありました。
TRPGには、ダイス(サイコロ)を振るランダム要素があります。にもかかわらず、ダイスの出目は必然性を帯び、ゲーム内の物語に影響を及ぼす。結果、TRPGは唯一無二の物語を作り上げます。同じ物語は二度と生まれないのです。
遊ぶたびに、唯一無二の物語が生まれる。その点に抗いがたい魅力を感じ、何度もTRPGを遊んでいる。時間と労力をかけた準備も苦にならないのは、毎回新しい物語に立ち会えるからに他ならない。
そのときに初めて「私は物語が好きなんだな」「物語がつくられる過程を眺め、関わるのが楽しいんだな」と腑に落ちました。
最初の記憶は小学4年生のころ
とはいえ、昔からこんなふうに思っていたわけでもないはず。
物語を意識するようになったのはいつ頃だろう?と振り返ると、初めて小説を書いた小学4年生の頃を思い出しました。
当時はまだパソコンも使っておらず、少女マンガ雑誌のふろくのノートに冒険小説を書いていました。誰にも見せる機会はありませんでしたが、全30話を書ききったのは創作における原体験のひとつです。
小説やマンガは昔から好きでした。でも、それは絵が、とか表現が、といった話ではなく、そこに物語があったから。(もちろん絵や表現に対する好みもありますが)
その頃からテレビゲームもよく遊んでいましたが、当時を思い返すと、テレビゲームなら何でも好きなわけではありませんでした。
アクションゲームは苦手でマリオの1-1面すらクリアできず、CPU相手のパーティーゲームはまったく長続きしない。結局長時間プレイしたのはRPGばかり。
もちろん、得意不得意はあったでしょう。でも、当時ゲームを遊んでいたモチベーションのひとつに「物語」の存在があったのは確かです。
人には必ず物語がある、その交差点が好きだ
マンガやゲームに限らず、さまざまな物語に魅力を感じる根底に、「人には必ず物語がある」の考えが強くあります。私自身が大事にしている考え方のひとつです。
フィクションのストーリーのようにきれいに整形されてはいない。でこぼこで、展開もぐちゃぐちゃで、完結していない。どこを切り取るか、どう見せるかによって解釈も変わる。何より、多くはその結末を見届けられない。でも、確かにひとりひとりに物語は存在します。
私自身は音楽を聴くのが趣味で、足繁くさまざまなライブハウスに通っています。ですが、出演者を見るのと同じくらい、観客を見るのが好きです。
以前、オンラインコミュニティ内のオンラインイベントで、ラブライブ!のAqoursのコンサートについて話していた方が「ライブ中に観客を眺めるのが好きだ」と言及していました。そのとき初めて、私も全く同じ行動を取っていると自覚しました。
時折、ここ(ライブハウス)にいる観客はどんな気持ちで出演者を、ライブを見ているのだろうと考えます。ライブに集まっているひとりひとり、そのときの感情や抱える気持ちは違うはず。当人のこれまでの物語との掛け合わせで、そのライブがどんな意味を持つかは違ってくるはずです。
本来その場所でなければ出会わなかった人たち。特に会話はしないけれど、同じ場所と時間を共有し、何かを持ち帰り、またそれぞれの物語に戻っていく。
人と会ったり、コンサートやライブで同じ会場に集まったり。そうやって人を感じるたびに、誰かと誰かの物語の交差点にいるのだと実感します。
分かり合えないからこそ物語が活きる
身も蓋もありませんが、他者とは分かりあえないと思っています。実際分かりあえないのでしょう。
どんなに近しい人・大切な人でも、自分以外は他人です。相手の頭の中、目に見えるもの、その色合い、聞こえているもの、感じている香り、興味、体調、感情の変遷、それらを100%共有する・してもらうのは不可能でしょう。自分の世界は自分の中にしかない。
でも、分かりあえないからこそ、物語が活きるとも考えられます。
他人の痛みや悲しみを想像する。知人の目まぐるしい変化を見守る。友人の挑戦を応援する。それらを理解できなかったとしても、「他者の物語がそこにあるのだ」とは想像できるはずです。(とはいえ、言うが易し行うは難しと言ったもので、その考えを常に意識しつづけるのは難しいんですけどね……。)
そういった、人と人をつなぐハブになるであろう物語たちに、尽きない興味と希望を抱き続けています。