「本当の自分」で仕事をしたいが、そんなものあるんだっけ?
こんにちは、ゆう(@yuhlabo)です。
以前から、折に触れて「全人格的に働く」とは何か?と考えています。
全人格的な働き方への憧れがある。ただ、それは本当に達成できるのだろうか?そもそも全人格的って何?全人格的なんて本当にあるのか?あるとしたら何なのか?
そんな内省をつらつらと書いた記事です。
「全人格的」を再定義したら「本当の自分」になった
そもそも「全人格的」の定義がしづらい。小難しい単語です。
まずは、私自身が「全人格的」をどういう意味で使っているか考えていきます。
自分の一側面だけを見せるのではなく、さまざまな好き嫌いや趣味、矛盾する感情や葛藤を持った、総合体としてのひとりの人間。全人格的を言葉にするなら、そんな意味合いです。自分だけが、総合体としての自分を知っている。自己認識上の自分。
「全人格的」をもっと柔らかく言い換えるなら、「本当の自分」になるのでしょう。
無理に取り繕わなくてよい、心理的安全性があってネガティブフィードバックをしやすい・受け取りやすい。そんな状況や心理状態、いわば鎧を脱いでいる状態を「全人格的である」と定義しているだけでは?と反論もできます。
鎧を脱いでいる状態の自分を「本当の自分である」と認識しているだけかもしれない。考察の余地はありますが、一旦先に進みます。
自分自身を、ゆらぎを含め「本当の自分」だと再定義する
別の視点から考えてみる。全人格的なさまを「ゆらぎのある自分の状態」と捉えてみたらどうだろう。
「確固たる本当の自分」ではなく、「葛藤や揺らぎを含めた確固でない自分」として全人格的なさまを見てみます。試行錯誤している自分も、確信のある自分も、全部自分です。昨日と今日で主張が違うなら、そのどちらもが自分である。そう考えす。
確固たる本当の自分はなくて、自他の境界線も実は曖昧。自他は相互に影響を受けて変化している。変化しないものなどない。変化していないと思えるなら、それは停滞ではなく退化だろう。
実際には、本当の自分はあるかもしれないし、ないかもしれない。正直どちらでもいい。
自己開示が鍵になりそう
全人格的=本当の自分で仕事をする鍵は、揺らぎも含めた自分自身を開示していくプロセスにありそうです。
自分が今いる環境で、自己認識と他者認識の溝をできるだけ埋めていく。自己認識上の自分と、他者から認識される自分にズレが少ないほど生きやすくなるでしょう。
家庭、会社、学校、サードプレイス、どんなコミュニティにおいても、自己認識と他者認識の差が大きいほど行動しづらく、小さければ行動しやすい。
サードプレイスのひとつであるオンラインコミュニティのすごしやすさは、自己認識と他者認識の溝が限りなく小さいところにありそうです。これが断崖絶壁のレベルになっているとかなりやりづらい。想像でしかありませんが。
ただ、私自身、どちらかと言えば自己開示は不得意なほう。どう自己開示していけばいいか、苦しさを感じない・軽減させるためにはどうすればいいか。考えるポイントは、まだまだたくさんありそうです。