考え続けることと、田舎の親戚の会話に見る違和感について
お盆といえば帰省です。
私も、例に漏れず実家(近場)に帰省しました。
親戚とご近所さんの会話がしんどい
その帰省で、義理の親戚とご近所さんの会話に、辟易している自分を見つけました。
まったく価値観が違うなあ……と、つい思ってしまったんです。
行った場所は、交通に不便ではないレベルの、ちょっとした田舎です。
少なくとも、都会とは言えない場所。
お盆ということで、仏壇に参るために、親戚の家にはいろんな人が訪れます。
そんな場で繰り広げられた、田舎の義理の親戚と、そのご近所さんの会話に耐えるのをやめ、中座することを選びました。
信念を強固にしたいだけの話に付き合えなかった
私は、何が気に食わなかったんだろう?
自問してみると、気づくことがあります。
彼らは延々と話を続けていましたが、内容を要約すると、次の2点でした。
(1) 東京に出ず暮らしているという、自分たちの選択が絶対に正しいんだ! (2) 東京は危険に溢れている!=(1)の裏付けのための東京ディスり
地下鉄が危険だとか、ハザードマップではこの辺は安全だとか。
大きな河川の堤防の作りようとか。
これらを、自分の経験ではなく、人から聞いた話だけをソースとして展開している。
そんな思考停止ぶりを感じてしまい、「中身が薄いなあ」と辟易したんです。
何より、要約すれば10分で終わる内容を、あの手この手の噂話をもとに、延々と話し続けている。
「相手の時間を無意識のうちに奪っていること」への鈍感さも、中座する理由でした。
繰り返される会話が、人物像を作っていく
こういった「強固な偏見(信念)によって繰り返される話」って、どこにでもある気がします。
解釈は多面的なので、彼らの言っていることにも、聞く人なりの解釈がついてくるのは事実です。
そういった解釈が、少しずつ重なっていって、話す人の人物像や、価値観を作っていくんだろうなあ、と思います。
偏見に満ちているとは言え、彼らが持っている、強固な信念は少し羨ましいです。
一方で、「人の振り見て我が振り直せ」とはよく言ったもので。
私の主張も、他の人からすれば、彼らと同じように見られているのかもしれません。
『常識とは、18才までに得た偏見のコレクションである。』
(アルバルト・アインシュタイン)
私自身が持っている常識や偏見を常に疑って、考え続けると共に、自分が思う正しさや正義・常識を、人に押し付けたくはないなーと思います。気をつけよう。
考え続ける自分でありたい
その親戚やご近所さんも、将来への不安に対する、確証とか、正解がほしいだけなのかもしれません。
でも、その正解は人に押し付けるものではないし、悪意がなかったとしても、解釈違いなら争いになりかねません。
宗教と同じことです。
「幸せになる勇気」に、こんな一節があります。
哲人:真理の探究のため、われわれは暗闇に伸びる長い竿の上を歩いている。
常識を疑い、自問と自答を繰り返し、どこまで続くかわからない竿の上を、ひたすら歩いている。するとときおり、暗闇の中から内なる声が聞こえてくる。
「これ以上進んでも何もない。ここが真理だ」と。
(中略)
そこに真理があるのか?わたしにはわかりません。あるのかもしれないし、ないのかもしれない。
ただ、歩みを止めて竿の途中で飛び降りることを、わたしは「宗教」と呼びます。哲学とは、永遠に歩き続けることなのです。
そこに神がいるかどうかは、関係ありません。
考え続け、歩き続ける自分でありたいと、強く思いました。