「考えること」は、人間であることそのもの
ゆう
ひとりアソビラボ
憧れって何だろう?と、考えています。
「常連の飲み屋を持つ」っていう憧れを、ずっと持っていました。
お店の人に顔を覚えられて、店員さんや、他の常連さんと楽しく話をする。そんな風景。
ただ、いざやってみると、どうにも違うんです。
お店の常連の方と話を続けても、どうにも楽しくない。むしろ苦手だ、と思ってしまう。
ここで、ふと気になったことがありました。
「憧れ」と「苦手」って、両立するんだろうか?
両立しないとしたら、「憧れ」はどこで「苦手」に変わるのか?
人、環境、物など、憧れの対象は様々です。
ただ、何かに憧れているとき、その対象のことをよく知らなかったりします。
憧れている対象と自分との間には、いつも「距離」がある。
対象との距離が遠い、イコール知らないことがあるということ。知らないことは、自分のこれまでの知識をもって、想像で埋めていくしかありません。
この「想像で埋める」が、とても厄介です。
自分にとって最も都合のいいい解釈で、対象の知らない部分を補完していく恐れがあるから。
対象に近づいていくと、今まで知らなかった・見えていなかった部分が見えてきます。
見えていなかった部分=想像で埋めてきた部分でもあり、想像と現実を照らし合わせた答え合わせです。
このとき、もし「こんなはずじゃなかった」と落胆や失望が生じるなら、憧れは苦手に変わることでしょう。
憧れ自体はふわっとしているから、「自分が本当に憧れているもの」が、その対象とはズレている可能性があります。
憧れる →対象に近づく →想像と現実の埋め合わせをする →ギャップに落胆して苦手になる →それでも、憧れたものに近づく・憧れたものになれるという可能性を捨てきれない →対象に近づく →略
といった感じで。
「憧れ」と「苦手」の間を揺れ動きながら、真に望むものへ収束していく感覚が、今の私には近そうです。
言葉通りの意味で受け取ると、人によって意味が違ってくる。
だから言葉は面白いんだなと、いつも思います。