フジファブリック・志村正彦という男を忘れられない
私は音楽が好きです。
その音楽遍歴の中心であるロックバンドのひとつが、フジファブリックです。
2009年に亡くなったボーカルの歌を忘れられない
フジファブリックのボーカル・志村正彦は、2009年12月に急逝しました。
私は、志村正彦が急逝して以降の彼らに、まっすぐ向き合っていません。
現在を追えていない一方で、彼らの音楽に出会ったときのことを、今でも鮮明に覚えています。
私の実家は、アニメ以外のテレビをつけず、FMラジオがテレビの代わりでした。
ラジオで流れる音楽を通じて知ったものが、たくさんあります。
BUMP OF CHICKENの天体観測などもそのひとつです。
そんな中で、中学生のときに初めて聴いた「赤黄色の金木犀」の鮮明さとノスタルジアを、今でもときどき思い出します。
私の中のフジファブリックは、まだ志村正彦のボーカルの頃で止まったままです。
志村正彦が亡くなってからは、これまでギターを担当していた山内総一郎が、ギターボーカルを務めています。
私は未だに向き合えていないままですが、山内総一郎がボーカルになってから、フジファブリックのことを好きになった人もたくさんいます。
フジファブリックに限らず、今好きなものに違う出会い方をしていたら、どう好きになっていただろうな、と時々考えます。
好きにならないかもしれませんしね。
「懐古厨」という言葉は、好きではありません。
自分もそうはなりたくないと思っています。
しかし、思い入れが強すぎるあまり、対象の現在とうまく向き合えなくなるのは、実際にある話です。
そこを、懐古厨という言葉で蔑ろにするのは、これまでの感情や経験に対して、失礼なことをしているのではないでしょうか。
それはそれ、今を追いかけるかどうかは、また別の話。
偏見のない「好き」など存在しないんじゃないか
個人の解釈が入らず、偏見のない「好き」なんてあるのだろうか。
そんなことを考えます。
先述の通り、私は、志村正彦がいた頃のフジファブリックに思い入れが強すぎて、彼が逝去して以降の音源に、あまり向き合っていません。
ただ、彼が死んだという事実と、今のバンドの活動内容につながりを持たせて解釈しているのは、紛れもなく自分の意志です。
志村の死後、ギターパートの山内がギターボーカルに転向してからフジファブリックを知った人は、志村が歌う音源を聴いて違和感を覚えるそうです。
同じものを好きな人はたくさんいるけれど、どんな経緯で好きになるかは人によって異なります。
同じ対象への「好き」でも、出会い方や感情の乗せ方、関わり方は十人十色。
その経緯には、ひとつとして同じものはない。
事実と解釈はいつだって別物だ。
そのことを、折に触れて思い出すのです。