「正直者が馬鹿を見る」って、現代だとちょっと意味が違う
ゆう
ひとりアソビラボ
「好き」の感情も形はさまざま、という話です。
先日、同居人が使っていたガラスコップを割ってしまいました。
すぐに「新しいものを買いに行こう!」ということになり、向かったのはガラス食器のお店。
大好きな、スガハラというガラス食器のお店です。
スガハラのグラスが大好きで、自分で使うだけでなく、弟の誕生日プレゼントに贈ったこともあります。
直営店では、ライトに照らされて展示されているガラス食器を、心ゆくまでまで眺めることができます。
「好き」という感情は、必ずしも、大きな熱量を伴うものではない。
ガラス食器を眺めていて、ふとそんなことに気づきました。
好きなものに囲まれているときは、必ずしもテンションが上がっているか?
と聞かれると、そうでもないなあ……と思います。
凪のように穏やかな気持ちを維持していることもあれば、澄んだ水面を覗き込むような、静かな好奇心を抱いていることもあります。
これを一般的な言葉であらわすなら「充実感」と呼ぶのでしょう。
ガラス食器を眺めていたときの私は、まさしく自分の心を「好き」で埋め尽くし、充実感に満たされていました。
そして、びっくりするほど、気持ちは落ち着いていたのです。
心地よい距離感の「好き」で、自分自身が満たされること。
この感覚は、無理をせず、ニュートラルに、自然体でいられるときの感覚と同じものです。
熱量の高い「好き!」を燃やすと共に、静かで心地よい「好き」を追求することも、自分を形作るためには必要なこと。
そんな感覚も大事にしていきたいと、改めて思えました。
スガハラのグラスもおすすめです。